北野武「キッズ・リターン」の映画解説


キッズ・リターン [Blu-ray]
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言わずと知れた北野武監督の「キッズ・リターン」

結論から言うと、この映画の見所は、ずばり自転車のシーンです。
冒頭の自転車の二人乗りのシーンと、ラストの自転車の二人乗りのシーンが対比して描かれています。

この映画、観ればわかるように作られています。
なので解説なんかいらない映画だと思うんですが…。
しかしネット上だと意外にちゃんとした映画批評が少ないんですよ。
ラストの自転車のシーンの台詞ばかりピックアップされてて…。

はっきり言って、この映画一回しか観ていない、映画マニアでもない自分ですが(笑)
記憶を掘り起こして解説してみたいと思います。(なのでまぁ気軽に読んでください)


冒頭の揺れる自転車の意味

この映画のあらすじ、若者が大人の汚い社会にまみれて挫折する姿を描いた物語です。

主人公は二人。キャラクター設定はこんな感じ。
マサルはいきがって偉そうな態度を取るけど、実力が無くてすぐ逃げ出してしまう典型的負け犬タイプ。
シンジはそんなマサルにどこか憧れつつ、(才能はありそうだけど)人に流されやすくて主体性のないタイプです。

この映画は台詞を聞いてなくても、映像さえ観てれば「わかるように作られています」
二人の関係も、冒頭の自転車のシーンで見事に全て解説されています。

・誰もいない校庭で自転車に変な二人乗りをする主人公たち。
・自転車は右から左へスピード感あるように進んでいく。
・マサルは画面で右手。自転車に座っている。ハンドルは操作してるけど、自転車はこいでいない。
・シンジは画面で左手。ハンドル部分に背中を向けて座るような形で、後ろ向きに自転車をこいでいる。
・二人は向き合っていて笑いながら楽しそうにしている。
・しかしそんな不安定な乗り方をしている自転車は、ゆらゆらと今にも倒れそうに進んでいく。

このシーンを見るだけで、二人は向かい合い楽しそうにしているけれど、
後ろ向きに自転車をこいでいて、不安定にゆれる危うい青春、二人の関係が表されています。
また立場的にマサルが上でシンジがそれに付き従っているのが構図上から読み取れます。

演劇手法 上手下手の原則

これらは演劇手法でいう上手下手(かみてしもて)という構図が使われています。
簡単に解説すると、舞台上(画面上)で上手(向かって右側)の位置は立場的に偉い、強い者を表します。
下手(向かって左側)は立場の低い、弱い者を表します。
また右から左への動きはスピード感を感じさせるものの、(場合により)その者が下降していく暗示を示します。
逆に左から右への動きは遅く抵抗感を感じさせるものの、立ち向かっていく力強さ、上昇を暗示させます。
(上手下手は人間の心理に作用するものなので、この原則を知らなくても観た人は自然とそう感じるように出来ています)

これらが全てわかりやすい形で使われているので、演劇手法(映像手法)を知らない人が見ても、
よくわかるように描かれているのですね。
(自転車は青春映画のガジェットの定番ですから、他の映画もよく観てみるとこういう構図に気を使われています)

ラストの自転車のシーンの意味

一方のラストシーン。
挫折して社会からドロップアウトした二人が再開して、また自転車に二人乗りするシーンがあります。

・誰もいない校庭で自転車に乗る主人公たち。
・自転車は左から右へスピード感は無いけれど、安定して力強く進んでいく。
・シンジは画面で右手、サドルに座り進行方向を向き、しっかりと自転車をこいでいる。
・マサルは画面で左手、台座に右向きに座って、顔も進行方向を向いておらず、画面側に向いている。
自分で自転車をこいでいない。ただ乗せられているだけ。
・二人は向き合っていないし別々の方向を向いている。

冒頭の自転車のシーンと対比してあり、計算された構図になっています。
台詞なんか聞かなくても、このシーンだけで二人の未来を暗示させるようになっているんですね。
自分で前を向いて一歩ずつ自転車をこいでいるシンジは、もう一度やり直そうとする意思と希望が見える。
けれど自分で自転車もこいでない、前すら向いてないマサルには、未来への希望は無いように見えます。

このシーンで有名な台詞がやり取りされます。
シンジ「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかなあ」
マサル「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

多くの人は救われない物語だけれど、最後のこの台詞に救われた感想を持つそうです。

しかし脚本の常識として、キャラクターは台詞で人を納得させるのではなく、行動で示すことで人を納得させるというのがあります。
逆に言うと、台詞は必ずしも本当の気持ちを語っているわけじゃなく、行動からしかそのキャラクターの本音はわからないってことです。

このシーンではシンジはしっかり前を向いてこぎだしているけれど、
主体性なく流されやすい彼は不安にかられて思わずマサルに聞いてしまうんですね。
「俺たちおわっちゃったのかなぁ」って。(この台詞のとき一瞬マサルに向きます)
そして前すら向いてないマサルに対しても心配をかけて「俺たち」と聞くんですね。
でも「終わってない」って言ってもらいたいという期待を込めて聞いてるわけです。

それを聞いたマサル。
シンジはボクサーとしてはドロップアウトしてしまったけれど、これから社会でまた立ち直ることが出来るだろう。
けれどマサル自身は社会のド底辺のヤクザ社会からもドロップアウトして、これからの未来があるとは思えない。
でも主体性の無いシンジの性格を知るマサルは、シンジに対してエールを送るんですね。
まだお前は終わっちゃいないよ。人に流されやすいお前だけど、これからはしっかり生きていけよ、と。
俺も大丈夫だから心配するなよ、と。
「まだ始まっちゃいねぇよ」と。(この台詞のとき一瞬シンジの背中に顔を向けます)

しかし、もし本当にマサル自身も立ち直る意思があるとしたら、ただ荷台に乗せられてるだけじゃなくて、
行動で表現させるべきハズなのです。
自転車こがないにしても、荷台に跨り、前を向くくらいはさせるべきなんです。
そうでないってことは、彼自身が行動によって意思を表現してないってことは、
後は推して知るべし…ということなんではないかと思うわけです。

台詞に惑わされずに映像で示されていることを観ると、
ラストの台詞はまた違ったより深い意味を持っているように、
そして二人の深い友情を感じさせるように思うのですが、いかがでしょうか。

フランスと日本での解釈の違い

以下は蛇足です。

ちなみにこの自転車のラストシーンは日本と海外では全く違う解釈されるそうです。
フランスの批評家は挙って「でも彼らの人生はもう終わりだよね」と、階級社会らしい批評です。
一方の日本(の若者)たちは、このラストの台詞に勇気づけられ、主人公たちが再び歩みだす未来を感じるそうです。

当時「キッズリターン」は絶賛されず佳作程度の評価だったようです。
しかし映画評論家の淀川さんは、この映画を絶賛していました。
特に冒頭のゆれる自転車のシーン、二人の関係が映像で表現できてるのが素晴らしいと。

北野武は台詞回しを重視しない監督らしいです。
取り終わった後、平気でアテレコで台詞入れなおしたりするらしく。
逆に言うと台詞ではなく、映像で全て語ることには気を使っているそうです。
確かにHANABIとか、夫婦二人の台詞は最後まで無いですし。
「観れば」わかる映画を作る監督だと思います。

キッズリターンは北野武の事故後復帰第一作です。
事故当時「もうタケシは終わりだ」と散々言われ、「まだ俺は終わっちゃいねーと言いたかった」と何かのインタビューで聞きました。
その気持ちがこの映画にも反映されているだろうことは想像に難くないでしょう。

映画批評サイトで、同じような批評内容だったり参考になった批評サイトをあげておきます。
http://ameblo.jp/kssk8040/entry-10560190579.html
http://www1.odn.ne.jp/manga/eiga/6kids.htm

この映画は、ラストシーンに観客の想像の余地を残しているいい映画だと思います。

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コメント

  1. かなやわ より:

    最近地上波でやってたので見ました
    北野武さんは映像表現から意味を感じさせる、理解させる、繋げていく能力は高いのかもしれません。
    カメラがストーカーで説明しすぎない、画面がうるさくない、音がうるさくない。
    タイトルが出るところは素直にカッコイイとも思いましたから。

    ただですね、、、出てくる成人が残らず眉間を撃ちぬきたくなるやつばかりでマサルもシンジもかわいそうだとしばしば。
    僕は長男で、弟と妹がいるからそう感じるのかもしれません。
    組長やマサルの兄貴分のほうがまだマシだもの。(あくまでマシ)
    兄貴分なんて殺せるのに片腕で済ましてくれるもんね。(殺すと面倒だという可能性もありますが)

    がらんどうだった客席が大入りになる、地味でもへこたれても愚直に漫才を続けてた人達に拍手が集まる一方、マサルやシンジのいる本当にどうしようもない世界が横たわっているところからは゛俺達の青春時代ってほんとうにどうしようもなかったんだよ゛って語りかけられてるようにも思えて゛武さん、お疲れ様です゛って頭下げたくなるほどでした。

    ラスト台詞をAmazonで見たのがきっかけではあるんですが、世間の下馬評が全く理解できない。
    推測、同じような傷を見せられて共感している、年をとることが肯定できないみたいな気配も感じるからイヤになります。
    継続は力なりではなく、力とは継続することなんじゃないかと思い始めてる僕には、「でも彼ら死ぬよね」ってほどではないにしても「はたして、うまくいくといいが」とは思ってしまった。

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