39段の階段


人は同じものを見ても、同じものを感じるわけじゃない。

あなたは毎日登っている駅の階段の段数を知っていますか?

聖書の次に世界で2番目に売れている本はシャーロック・ホームズだという話ですが、よくよく読んでみるとこの主人公、どうみても変態です(笑) 女性嫌いでヤク中毒、ワトソンに依存しているくせに時にイジめるのに熱中するという有様。ワトソンが結婚するときには結婚を引き止めさえしています。今なら間違いなくゲイ決定です(笑)

そんなホームズがワトソンをやりこめる台詞の一つに、階段の話があります。

「君は毎日登っている階段の段数さえ知らない。観察力のない人間というヤツは見えてるふりをしているが、実は何も観ていないのだ!」と。

確かにその通り、普通の人はそんなもん気にしてるわけないのです。ある例外を除いては…。


昔高級マンション等の入り口に、なぜか1~2段の階段があることがありました。バリアフリーなんて言葉が浸透する前はよく見る風景だったのです。スロープにすればよいものを、なぜわざわざ階段にしているのか…。

実はそこには理由があったのです。逆バリアフリーとでも言うべき発想が…。

「瀟洒な高級マンションや高級店には車椅子の人間は似合わないし、周りにも悪影響だ。だからそういった人が使いにくいように、建築上必要ない階段をわざとデザイン的につけてくれ」 そういう要望を出す人がいて、そしてそれを深い考えもなく実現する建築デザイナーがいるという話でした。
それが本当だとは信じたくはなかったけれど、その説が納得できるほどに、世の中には無意味な階段が多すぎるのです。

その頃デザイン学校の学生だった自分は、デザインには無限の可能性があると信じていました。
アートが人々の魂を揺さぶるように、デザインには人々の生活を豊かにする力があるものだと思っていました。
ですが、現実はそんなことはなかったのです。

デザイナーが善意の第三者を装って、実は害のあるものでも平気で広告しデザインすることが、日常茶飯事だと気づいてしまった。そのとき以来、たった一つが変わっただけなのに、見えるもの全てが変わってしまったように思えたのです…。そしてまた魂のないクリエイターを余計に軽蔑するようになってしまった…。

知らないのならただの無知な馬鹿ですむが、知らないふりをするのは悪人だと。そしてそれを理解するがゆえに、目と耳をふさぎ知らずに善人として生きようとする人もいるのだと。

あの頃、世界は変わると信じていた。
そして今、何も変えられない自分がいることに気づき、ただ知ることによってのみ感傷に浸り、糊口をしのぐ毎日。

地元の駅の階段にはエレベーターもエスカレーターもありません。自分は毎日登っている階段の数を知っています。でも殆どの日を何も感じることなく、ただ階段を登っています。何も見ていないのと同じように。

人は同じものを見ても同じものを感じるわけじゃない。
誰かにとっては単なる階段でも、誰かにとっては超えられない一段なのかもしれない。

ソクラテスは「ただ生きるのではなく、良く生きることが大切だ」と説き、
かのホームズは「ただ見るのではなく、良く観察することが重要だ」と言い、
ショーペンハウエルは「ただ知るのではなく、それを租借し生かさなければ意味がない」と語りました。

誰かが少しずつ気づかず、少しずつ思いやりが足りない。だとしても何かを伝えることで知ることによって、一人一人が少しずつ気づき、少しずつ思いやることができるようになれるかもしれないと。
この世から全ての無意味な階段はなくならないかもしれないけれど、ただ一段の階段を登る手助けくらいはできるのではないかと。

ただそんな都合のいい希望を抱きながら、ただ少し感傷に浸り過ぎた文章を書いています。
そして今日もまた、いつもと同じように39段の階段を登りながら、そしてほんの少しだけ流れぬ涙に目がしらを熱くしながら…。

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